わたしの全ての物語(仮)

ほとんど海外児童書

『世界を7で数えたら』(ホリー・ゴールドバーグ スローン作 三辺律子訳 小学館)

『世界を7で数えたら』

作者:ホリー・ゴールドバーグ スローン
訳者:三辺律子
出版社:小学館
出版年:2016年
ISBN:978-4092905801

主人公ウィローは数字の7で世界を見る女の子で、生まれてから7番目の月と7番目の日に里親に出会った。高機能の脳を持ち、世界とそりが合わず、すでに幼稚園で「変なやつ」と言われる。植物は酷いことを言わないから庭にいると落ち着いた。自分でも変わっているとわかっていて、それを抑えようとしている。自分の世界に逃避したいときは数を7つずつ数える。中学の新学期、限界に達し、早退した日に庭で夜空を見あげ星を数えたら、その数が最高記録になった。

ウィローは考えることが好きな女の子だ。その探求力のおかげで、植物が植物らしく生きていることを知っている。ウィローは自宅の裏庭に思い入れがある。「植物は、一年を通してそこいらじゅうに生えていて、地面の上で押しつ押されつつしながら育ち、仲間を増やし、生きている。なのに、あたしたちはとうぜんのものとして目もくれない」という。その言葉は本質をついている。

この作品は、肌の色や、女の子だというせいで、ギフティットの子がきちんとケアされない問題に向きあっている。ウィローは中学校で初めて受けたテストで満点を取ると、不正を疑われ行動カウンセラーのもとに送られる。前例がないからと十把一絡げにされ、耳を傾けてもらえない。前の学校の先生がウィローの聡明さを引き継がなかったのは、人として尊重しなかったからかもしれないと思うと、悲しくなった。

だが、カウンセラーのもとに通うようになって、良いことも起きた。ウィローはカウンセリングに通ううち、同じカウンセリングを受ける子と友だちになる。はじめての友だちだ。年上の高校生、カリフォルニア系ベトナム人の女の子マイは、ウィロー自慢の裏庭をちゃんと見てくれた。読んでいると、マイは、落ち着いた自信のある子で、どこに問題があり、どうして行動カウンセリングに来ているのか疑問に思った。その判断にも実は偏見が潜んでいるのかもしれない。アジア系の女の子なのに大人しくないから?言葉のせいで困っているだけかもしれないのに?そういうふうに、社会は人の本質を見ないふりをしているか、そもそもなにも見ていないのだろう。ウィローにもマイにも少しずつ親近感を覚えるから、これはアメリカだけの問題ではないはずだ。

もう一つのテーマは里親制度。ウィローは里親から愛情いっぱいに育てられていたが、事故で二人を一度になくしてしまう。そして、新しい里親を探しを進めるうちに、里子として好まれるのは、年少の子やブロンドの子ばかりだということを知る。

そんな、シリアスな内容でありながら、本作をすっと読み進められるのは、そこかしこに救いを感じるからだ。ウィローは人生の移り変わりを庭にたとえながら、じょじょに喪失感から立ち直っていく。ウィローと出会う人々は、その秘めた力が花のようにぱぁっと開く。みんなが癒されていくのがうれしい。それは、ウィローに人の良いところを見る才能があるからだ。

カウンセラーとして働く白人中年男性のデルも良かった。これまでいくつもの仕事をクビになり、ようやく見つけたのが、”だれもやりたがらない”行動カウンセラーの仕事だった。前任者は疲弊して辞めていったという。その細かい背景まで書いてあるわけではないが、社会に必須の、いわゆるエッセンシャルワークの仕事の大変さがほのめかされているよう。デルの主な業務は、自分のところに来る子どもたちを、前任者が決めた5つのカテゴリーに分類していくだけ。仕事に対する意欲はあまりない。だから、はじめのうちは、デルが少し手を抜いているように見え、傲慢だとおもった。でも、よく考えてみたい。デルは、今までどの共同体にも「属している」と感じたことがないのだ。疎外感をおぼえ無気力になっていただけ。そんなデルもウィローと、あるプロジェクトを進めていくうち、人に期待されるよろこびを知り、自信がついていく。

ウィローが出会うのは、それぞれが孤軍奮闘していた人たち。みんなが結ばれていく様子は爽快そのものだった。ウィローはこう言う。「どんな人にもいろいろな要素があって、それが混ざりあって唯一無二の存在になっている。あたしたちはみんな、不完全な遺伝子のスープなのだ」と。だれもがウィローのように世界を見られたら、人々はつながっていくことだろう。

*カウンセラーのデルのことは、ブログ開設のあいさつでも触れた。「突然変異」する大人とはデルのことだ。いつになっても変われるのだと思うと、心が軽くなった。

 

trawkwk.hateblo.jp

 

 

 

『葉っぱの地図』(ヤロー・タウンゼンド 作 /井上 里 訳/小学館)

作:ヤロー・タウンゼント
訳:井上 里
出版社:小学館
出版年:2023年
舞台:(出版国)イギリス
ISBN:978-4092906693

*2023年ブランフォード・ボウズ賞ショートリスト選出。

本書は、植物の声が聞こえる少女が、大切な庭と母の名誉を守るため旅に出るファンタジーだ。

12歳のオーラは母を亡くし、〈野いばら村〉のはずれにある小屋でひとりで住んでいた。友だちは庭の植物と愛馬のキャップだけだ。ある日、キャップが怪我をしたので薬草で手当てしたが、なぜか効かなかった。よく見ると、葉っぱに黒い染みがある。村では原因不明の病が流行っていた。村の総督は、病の原因は植物だと言い、オーラの庭を焼き払おうとする。

村の総督はインク作りで財を成していた。その屋敷はオーラの小屋の近くにある。オーラの亡き母は植物に詳しく、薬草が作れたため、総督に請われ、屋敷で病人の手当てをしていた。しかし、母も同じ病で亡くなってしまう。総督は、村に病を持ち込んだのはオーラの母で、インチキな治療で人々を騙してきたという噂を流した。

オーラには母の日記が残されていた。そこには薬草の効能と、暗号で書かれた地図があった。オーラは地図をたどり、治療薬を探す旅に出ることを決めた。村の仲間とトリオを組み、舟で川をさかのぼっていく。仲間は、病の兄を助けたい少年イドリスと、お屋敷に住む賢い少女アリアナだった。

オーラたちが冒険で戦うのは、保身と利益のために平気で人を犠牲にし、息を吐くように嘘をつく悪党だ。そんな悪党に果敢に挑むオーラに拍手を贈りたい。オーラは母の尊厳を傷つけられ、心はかなしみでいっぱいだった。オーラは人を頼るのが苦手で、ときに意地をはり、仲間に苛立ちをぶつけてしまうこともある。その姿に等身大の子どもらしさを感じたので、オーラがゆっくり心を開いていくようすに自然と寄り添うことができた。

この物語には、文字通り、オーラに声援を送る植物がいる。オーラの庭で、そこここの道で、たくましく根を張るさまざまな植物たちだ。オーラに暗号や、謎解きのヒントをささやき、証人の役目を果たしてくれる。それがこの物語の最大の魅力だ。鍵になる植物たちは、章のはじめに挿絵と効能が書かれ、物語に光を添えている。

 

『このすばらしきスナーグの国』(E・ A・ワイク=スミス原作/ヴェロニカ・コッサンテリ作/野口絵美訳/徳間書店)

原著:E・ A・ワイク=スミス
作:ヴェロニカ・コッサンテリ
訳:野口絵美
出版社:徳間書店
出版年:2023
ISBN:978-4198656805

 

【概説】

本作は、『ホビットの冒険』の著者J.R.R.トールキンが自分の子どもに読み聞かせた名作をもとに、イギリスの現代作家が編みなおした作品だ。スナーグとは、『ホビットの冒険』や『指輪物語』に出てくる〈ホビット族〉の原型となった〈スナーグ族〉のこと。小柄で愉快なキャラクターだ。

 

【あらすじ】

はじまりの舞台は、身寄りのない子どもが暮らす〈サニーベイ〉の家。崖の上にある敷地内の〈おこごとベンチ〉に、〈スナーグ族〉のゴルボが座っていて、ワトキンス先生に叱られている。ゴルボは〈サニーベイ〉で働き出してから失敗ばかり。この日、ここに住む、フローラとピップに夜中にジャムタルトを食べさせたため、とうとうクビを言い渡され、スナーグの国へ帰った。

一方、規則を破ったフローラとピップは罰として、ピクニックに連れて行ってもらえず、うんざりしていた。ふたりのもとに怪しい大男が運転する車がやってきて、ドアが開いた。中で不思議な紫の女が手招きをする。規則などないところに連れて行ってあげると言われ、ふたりは車に近づいた。中の籠から子犬が顔を出した。フローラが手を伸ばすと、ドアが閉まった。フローラを乗せた車が走り去る。ピップはフローラを探しに禁じられた森に入っていった。

ふたりは無事に森で再会し、ビルボにも会えた。あのときの子犬も一緒に、みんなでスナーグの国に行った。スナーグはお客を招くのが好きで、女王は宴が大好き。気が向けば宴を開くことになっているが、しょっちゅう気がむき、さまざまな口実で宴が開かれていた。その夜も、ふたりは踊り、お菓子を食べ放題、ハンモックで寝て、この上ない楽しい時間を過ごした。

一方、川を挟んだ向こうには〈スナーグ族〉の敵、〈ケルプ族〉の国がある。そこはよそ者を拒む国だ。〈ゴリトス〉(人食い鬼)がいて、川のほとりに〈呪い〉を売る魔女が住んでいる。魔女の家は不気味でお客を歓迎する雰囲気ではない。しかし、フローラとピップは、道化にだまされて魔女の元へ連れて行かれた。ジンジャーブレッドで眠らされ、トロールに食べられそうになった……。

 

【感想】

この物語は、いわゆる〈行きて帰りし冒険物語〉だが、成長するのが、子どもだけではない点に魅力がある。注目したいのは〈サニーベイ〉のワトキンス先生だ。先生は厳しいが、子どもに規則ばかり押し付けるのはいかがなものかと心を痛める。この描写から、どうやら深みのある先生だと仄めかされる。フローラとピップの冒険が進むに連れ、先生の暗い過去の封印が解かれていくのが読みどころだ。先生は同じ痛みを次世代にもち越すまいと奮闘する。その姿に感じ入った。

主人公ふたりも魅力的だ。フローラが過去に、子どもへの理解がない母親のもとで暮らした様子は『秘密の花園』のメアリーのようだし、ピップはその名前から『大いなる遺産』を思わせた。また、ふたりが家を恋しいと思う気持ちは『オズの魔法使い』のドロシーのようだ。『ホビットの冒険』だけではなく、さまざまな名作の魅力がふたりに凝縮されているのだから、惹かれないわけがない。女王の宴も『不思議の国のアリス』を思い出させた。とにかく夢中で読んだ本だった。2023年に発売された児童書で楽しいものは何かと言われたら、この作品に尽きると思ったので、ブックサンタとして、この1冊を贈った。

 

絵本『きょうはふっくら にくまんのひ』(メリッサ・イワイ作/横山和江訳/偕成社)

作:メリッサ・イワイ
訳:横山和江
出版社:偕成社
出版年:978-4-03-348600-0

 

6階建てアパートの1階で、主人公の女の子リリはおばあちゃんとにくまんをつくっている。リリは、おばあちゃんに「たいへん、キャベツが足りない」と言われ、6階に住むバブシア(ポーランド語でおばあちゃん)にもらいに行く。ぶじに、キャベツを丸ごともらえたけれど、今度はバブシアに「たいへん、じゃがいもが足りない」と言われ、今度は、2階のグランマ(ジャマイカ語でおばあちゃん)にもらいに行くことにった。

色々な国にルーツを持つ6人のおばあちゃんたちが、マンションの各階に住んでいる。それぞれが郷土料理を作っていて、それぞれが少しずつ材料を切らしていた。おばあちゃんたちが「たいへん」と口にするたび、リリははりきる。けれど、アパートはエレベータが壊れていて階段を上り下りするので、リリもたいへんだ。でも、材料を届けおえるとおばあちゃんたちがよろこぶし、今日は特別な日だから、がんばれるのだ。

6階建てのアパートに住むのは、中国系、ジャマイカ系、イタリア系、メキシコ系、レバノン系、ポーランド系のおばあちゃんたち。中国系のリリのナイナイ(中国語でおばあちゃん)が作るのはにくまんで、キャベツをわけてくれたポーランドのバブシア(ポーランド語でおばあちゃん)がつくっているのはピエロギ。じゃがいもを分けてくれたグランマ(ジャマイカ語でおばあちゃん)がつくっているのはタマレス。呼び名は違うが、どれも小麦粉を練ってつくった生地においしい具を入れた料理のこと。英語ではダンプリングという。具材やスパイスが少しずつ違い、味や形も少しずつ違う。おばあちゃんへの呼びかけ、おばあちゃんたちの口ぐせ「たいへん」が、それぞれの国の言葉で表記されているのも、よかった。住む国がどこであろうと、大切な料理は、ふるさとの言葉で呼びつづけたくなる気持ちがわかる気がする。

読後の感想は、作者メリッサ・イワイのメッセージのことばとほぼ同じだった。「わたしは食べることが大好きなので、家族や友だちが食事を通して仲よくなる物語が好きなんです」そう、その通り。各階に住むおばあちゃんたちが、こんなにご馳走を作っているのには訳があった。これがまた、良かった!リリにとって、このパーティは大切な思い出になるだろう、と思った。

わたしもふと思い出したことがある。もうずっと昔、学生時代にカナダにホームステイしたとき、中国系のお宅にお世話になった。そのとき、ダンプリングを作ってもらった。ダンプリングという英語を初めて口にのせた。そうか、日本語では餃子だ、と思ったっけ。言葉と意味が結びついたとき、そのおいしさとやさしさが結びついた。ダンプリングという単語はずっと覚えているだろうなと思ったのだった。

2023/11/13

 

と、11月に書いていたが、今年のクリスマスウィークにジャガイモのニョッキを作った。この絵本を読んでからずっと、小麦粉を練って生地を作りたかったのだ。茹で上がるとき、とてもワクワクした。たぶんリリと同じ気持ちだったと思う。今度は、ナイナイのレシピで作ってみよう。

 



2023/12/25

『西の果ての白馬』(後半)(マイケル・モーパーゴ作/ないとうふみこ訳/徳間書店)

前半の続きです。

 

「ネコにミルク」

トレメッダ農場は〈ワシの巣〉の丘のふもとにある。農場主はバーバリーおじいさん。年老いてから結婚した奥さんは、息子トーマスを産んですぐに亡くなった。おじいさんは昔ながらのやりかたで農場経営を行っていた。トーマスが新しいやりかたを取り入れたいといってくるが、断っていた。おじいさんは亡くなる日、トーマスを呼び寄せた。「あいつら」との取り決め——ひとつ、毎晩白い器にミルクを入れて外に出すこと。ふたつ、毎年ジャガイモを収穫する際は畑に一列だけ残すこと——を守るように言った。「あいつら」とはノッカーのことだ。トーマスはそんなものはおとぎ話の中の存在だとして気に留めず、取り決めを反故にする。やがてトーマスは次々に不幸に見舞われた。

 

ノッカーは何度も警告にあらわれる。でも、トーマスは意に介さない。ノッカーは「ざんねんじゃよ」と言いながらまたあらわれる。トーマスは意地をはる。そんな繰り返しのパターンに興が乗ってくる。いよいよトーマスもおしまいか、と思ったとき、廃屋になった聖堂の裏の森からノッカーの仲間たちがぞくぞくと出てきた。彼らは歓声をあげ、手をつないで輪を作る。このシーンが心に残っている。これは魔法の輪なのだろう。それを見たトーマスの暗い心に光がさした。魔法の光で心が洗われたトーマスはかつてのおだやかを取り戻す。そして、息子が迷わないよう、自分が聞かされたのとはちがうやりかたで言い伝えを語る。トーマスのやさしさがうれしかった。

 

「ミス・マーニー」

ゼナー村を見下ろす丘のてっぺんに、ひっそりした一軒家がある。ここに住むのはミス・マーニー。穀物用の麻袋を服にし、いつもひとりごとを言う。マーニーは「変人」だから近づいてはいけない、とされている。ケイト・トレロキー10歳。自由奔放に育ち、周囲の荒れ地をかけめぐっている。ケイトは例の一軒家に興味津々。前を通り過ぎるたびに足を止めていた。とうとう中に入れるチャンスがやってきた。ケイトは銃で撃たれたカラスを抱いてその家の玄関を叩いた。

 

マーニーの家は、「草地をふみわけてできた黒い細道は、まるで家に近づくのがこわいかのように、門の少し手前を横切ってい」て、村人どころか、道まで近づかない。この生き生きした描写にグッと引きこまれる。また、荒れ地に関してはこうあった。「巨石時代につくられた墓〈ゼナー・クォイト〉は、古代の長が地上にのこした最後のかがやきのように思えた。そして巨大な花崗岩がいくつもかさなった〈つみかさね岩〉は、丘の上からゼナーの村を見下ろしている」ここにコーンウォールの大地の強いエネルギーを感じた。〈ゼナー・クォイト〉や〈つみかさね岩〉などはまさにパワースポットだ。だから、ケイトを引きよせる。ケイトはこんな子だ。「気分がくるくる変わる子で、たったいま、よろこびを爆発させていたかと思うと、つぎの瞬間はがっくりとうなだれて、だれとも口をきかなくなってしまう」もはや、ケイトが他人とは思えなくなっていた。夢みることのなにがいけないのか、とも思った。それは、短編も5作目になると不思議な世界になじんでいて、すでにモーパーゴの手のひらで転がされていたからかもしれない。マーニーも魅力的で、ぜんぜん変人なんかじゃない。マーニーはいくつかの理由で冬の寒さが好きではなく、ケイトはそのことを覚えていて、あるものをマーニーに贈ろうとする。その善意にケイトらしさがあり、心があたたまった。それになにより、順番通りに各短編を読み、モーパーゴのしかけがわかったとき、最高の気分になった。

『西の果ての白馬』(前半)(マイケル・モーパーゴ作/ないとうふみこ訳/徳間書店)

作:マイケル・モーパーゴ
訳:ないとうふみこ
出版社:徳間書店 
出版年: 2023年
舞台:イギリス(コーンウォール
ISBN:978-4198655983

 

イギリス、コンウォール半島に実在するゼナー半島を舞台にした連作短編集。ゼナーの町を見下ろす〈ワシの巣〉岬と、そのまわりの荒れ地がえがかれる。

それぞれのあらすじと感想を。あ、そうそう、この短編集は順番通りに読んでほしい。

 

「巨人のネックレス」

11歳のチェリーの家族は、ゼナー岬の入り江を気に入っていて、〈ワシの巣〉と呼ばれる丘のふもとの農地にあるコテージを借り、毎年休暇を過ごしていた。チェリーは砂浜でピンクのサクラガイを1025個集めていた。あと150個あれば巨人にあげるネックレスが完成する。休暇最後の日、最後のチャンスとばかり、夢中になって貝殻を探していると、灰色の雲が現れ、沖合に白波が立ち、潮が満ちていた。気づけばチェリーは崖の下の小さな砂浜に取り残されていた。やっとの思いで崖の上の洞窟へ行くと……。

 

スズ鉱山で実際に起きた悲劇を基にした物語。この地にスズの鉱脈があったことへの誇りと、過酷な作業を強いられたすえ、不慮の事故に遭った作業員たちへの敬意が感じられた。たぶん声を与えたら、そうしゃべるのだろうという臨場感があった。「かえりたい」と言いながら、今も掘り続けているのだろうか。こわくない幽霊の話が、なんともイギリスらしい。

 

「西の果ての白馬」

その昔、ベルーナ一家は、乗った船が難破し、ゼナー村近くの入り江に着いた。それ以来、代々守り続けた農家で生計を立ててきた。酪農も営みはじめたところだ。そのとき、なぜか、牛がつぎつぎ死に破産寸前になってしまう。一家は農地を売り、別の土地に越そうとするが、一家のアニーとアーサーの姉弟はここを離れたくない。ある日、元鉱山事務所の建物から助けを呼ぶ声が聞こえてきた。近づいてみるとそこには〈ノッカー〉がいた。〈ノッカー〉に、助けてくれたお礼に、願い事を叶えてあげると言われ、姉は馬がほしいと、弟は農場をもとどおりにしたいと願った……。

 

コーンウォール景勝地だが、嵐のたびに海が荒れる厳しい地だ。自然は、人を助けてくれることもあれば、気まぐれに暴走したりする。人の生活がうまくいっているとすれば、それはたまたまであり、ノッカーやピクシーやボガードなどの〈小さい人たち〉が手伝ってくれてるんだと、人間の力など、ささやかなのだから傲慢になるなと、いわれた気がした。「土地はだれのものでもない、生きているあいだ借用しているだけ」ということばに深みがある。アニーの願い通り、白馬が海からやってきて、一家に幸せな時間が戻るが、なにごとにも期限がある。白馬は、1年と1日後にノッカーに返さなければならない。どんな生命も、ある時間、あるべきところにいる定めで、それが自然だということなのだろう。そのテーマは、次の〈アザラシと泳いだ少年〉にゆるやかにひきつがれる。でも、ベルーナ一家は、人のいい親切な人たちなので、ちゃんと報われるのがこの作品のいいところだ。

 

「アザラシと泳いだ少年」

11歳のウィリアムは左足が不自由だ。村には、体が丈夫なら探検や冒険にもってこいの遊び場がある。だが、足が思うように動かない。ある日、村の酒場の裏小屋に住むサムから、足が不自由なら、水に入るのがいい、アザラシみたいに泳げるぞと言われ、はじめて海で泳いだ。陸を歩くのが苦手なウィリアムは、水の中では自由に動け、生まれてはじめて自分のやりたいことができ、誇らしくなる。それから、毎日、学校が終わると海へ行き、アザラシと楽しく泳ぐが、その話を誰も信じてくれない……。

 

ウィリアムは母から人魚や魔女の話を聞くのが好きで、自然とその世界になじんでいる。それが印象的だった。きっとウィリアムは”そっち”の世界の人で、たまたま人間界で11年生きてくれただけなのかもしれない。なにかの手違いで、妖精が人間界に来てしまうように、水に生きるべき少年が、陸に生を受けた話なのだと解釈した。今もウィリアムはアザラシと海で泳いでいる。本来いるべきところにいて、のびのび過ごせているのだと思えば、きっとお母さんは気が楽になるだろう、と思った。最近、リチャード三世(脊椎側彎症だった)にまつわる映画『ロスト・キング』を見たので、体の不自由な人に対し、人が勝手な偏見をもつ姿にやるせなさを感じていたせいもあるだろう。いちばん切ない話だけど、いつまでも心に残っていた。

 

後半に続く。

『アリとダンテ、宇宙の秘密を発見する』( ベンジャミン・アリーレ・サエンス作/川副智子訳/小学館)

作: ベンジャミン・アリーレ・サエンス
訳:川副智子
出版社: 小学館
出版年: 2023年
舞台:アメリカ(テキサス州
ISBN:978-4093567442

 

夢中で読み終えた。好きすぎるあまり、すぐ感想がまとまらないタイプの作品だった。アリの気持ちが沁みいるし、やや自分の思考回路に似ていて、いろいろ心にささった。アリの両親がいい人でよかった。たぶん、多様性の受けいれについて、まだまだ理想と現実の乖離があると思うから、辛い場面はあるけど、こういう話は世に出続けてほしい。

……と2023/10/05に書いていたので、あらすじと感想を追記してみた。

読後すぐ心に浮かんだ思いはこんな感じ。

ピックアップトラックの荷台で寝そべって砂漠の星空を見たい。
本能は理屈を越える。
人を好きになることってすてき。
犬は犬だ。

では、作品のかんたんな紹介と感想を。

テキサス州エルパソに住むアリは15歳。アリには、メキシコ人の国語教師の母とベトナム戦争帰還兵の無口な父がいて、さらに、「一生分」(12歳)歳の離れた双子の姉と、その1歳下に、家族から存在を否定された兄がいる。アリは、メキシコ人でもアメリカ人でもない自分に戸惑っていて、忙しいけど退屈で、父の勧めでボーイスカウトに入ったものの、大勢の男の子たちといると居心地が悪いし、そもそも同性であれ異性であれ、真の友だちがいない。人生は謎だらけだった。そんな夏のある日、プールでダンテに出会った。聡明なのに馬鹿なふりも平凡なふりもしないダンテが眩しく見えた——。

アリは言った。「宇宙一悲しい少年になった気がした。夏が来て、夏が去った。夏が来て、夏が去ったのだ。そして世界が終わろうとしていた」(p185)。これは、不可思議な少年ダンテに出会い、ある事故が起き、そして、ダンテ一家がシカゴに引越ししてしまう前の晩に発した言葉だ。これがとても心に響いた。

アリは、まわりから存在を認識されてないと感じていたから、自分の話に熱心に耳を傾けてくれるダンテに惹かれた。ダンテはダンテで、ありのままに生きていたから、孤独を味わっていた。ダンテは人から好かれるわりに、大勢と関わるのが苦手なタイプだ。そんな二人が意気投合するのは自然なことに思えた。ふたりが出会ったばかりの頃、ダンテがアリに『闇の奥』を貸した。作者のコンラッドも移民で、アイデンティについて少なからず悩んだだろう。その本をアリは「暗い」と言いつつ「悪くない」と評した。その感想がこの先の展開を示唆しているように思えた。『闇の奥』は、悲劇と言われているけど、わたしはそうは思わない。主人公マーロウは帰路で希望を感じているからだ。船員の知人がいるから、ひいき目かもしれないし、象徴として受けとっているかもしれないけど、平たく言えば、マーロウが奥地に送られたのは、できるだけ珍しいものを運んで帰ってこいいといわれたからだと思う。でも、物質ばかりを追い求めるこの社会は正しいのだろうかと疑問をもち、悩みぬいて答えを見つける物語だと思っているのだ。この生業の人が、この物語は悲劇だね、と言われたとしたら、もし、それがわたしの人生だったとしたら、やってられないと思う。

アリは繊細で敏感でありながら、喧嘩っ早く、感情が抑えられない危うさがあり、それを自覚している。自分自身が宇宙の謎だと思いながら、そのもどかしさを率直に語るのがアリの魅力だった。そんなアリの支えになったのは、ダンテのほかにも、いる。愛犬レッグスだ。「気持ちを修正することのない」犬の愛情表現を見て、なにか説明のつかない力が湧いてくる。

ところが、抑えのきかないアリだから、ときに賢明でない行動に出てしまう。それを父に諌められるのだが、その父を「人に対しても言葉に対しても慎重でいられるのは珍しい上に美しいことだった」と表現する。この反応に感動でふるえた。無口で謎だらけの父を理解したときの、アリの言葉選びがかっこいいのだ。物語全体に閉塞感が漂っているのに、終始美しさを感じるのは、アリの世界を見る感性のためだろう。苦悩の奥に美しさがあるという価値観は、まさに『闇の奥』のテーマに重なる。目の前のことをあるがままに受けとめ、前向きに進もうとするアリの美学があった。

原書は2012年発表だが、邦訳刊行に時間があいたのは、今ならテーマが多すぎる、と言われない時代になったからだと思う。自分は何者なのか(アリの場合、メキシコ人なのかアメリカ人なのかという悩み)、LGBTQ+(このくくりをしないで紹介できるのが夢)にまつわること、その偏見のある社会に生きること、ヴェトナム戦争で心が傷ついた父を持つこと、ある理由で(ネタバレなので書けない)失いかけた兄をとりもどすこと、などのテーマがあると思う。でももう、 ”ふつう” の15歳が主人公なんだと、すんなり受け止めてもらえそうな気がする。少なくともティーンの読者にはあたりまえだと受け止めてもらえると思う。海外の児童書/ヤングアダルト作品では、すでに、さまざまな背景の主人公の物語が生まれているし、それが読まれているはずだ、と。

背景の知識があればさらに味わいが深まるかもしれない。舞台はテキサス州。まだ、ニューヨークの都会に比べれば保守的だと思うから、こんな偏見や差別があるわけない、と言いきれないと思う。残念だけど。ダンテが、一時、シカゴ(イリノイ州に移り、「エルパソよりこっちの方が黒人が多くて、それがいいなと思うんだ。アイルランド系や東ヨーロッパ出身の人もたくさんいるし」とアリへの手紙に書いてきた。だから、アメリカ国内でも、地域によっていろいろなルーツを持つ人々が共存しているところと、そうでないところがあるようだ。それは日本も同じだと思う。令和になっても、多様性に対する寛容度は、コミュニティによってちがうだろうと思う。わたしの肌感覚でいえば、まだもう少し伝えていかなければいけないテーマかな、と。たとえば、この作品に出てくる、親族から縁を切られる伯母さんも、お兄さんの不在の理由も、物語だから大げさに書いているわけではなく、どこか身近に感じられる。だから、たくさんの人がこういった本に触れて、避けられることは避ければいいのだと思っている。誰かを差別したり、悪意のある偏見を持ったりすることは、かっこ悪いし、おかしいと思う人が増えれば。考え方が変わるだけでもいい。できれば、こつこつと行動にうつせればもっといい。草の根運動的にでも。

この本を読み、ふと思い出したのは、映画『君の名前で僕を呼んで』だ。主人公が、北イタリアの避暑地のカフェテラスで、気だるそうに過ごしてる。夏には、夏が終わるのを待っていて、夏以外は夏が来るのを待ってるという。夏という言葉がもう詩だと思った。夏の出来事って一大事なのだ。

ティモシー・シャラメが最近なにかやらかしたけど、演技は凄まじくうまい。

 

2023/11/11